学院コレクション


明治18年9月刊「大日本婦人束髪図解(3枚続き)」 画工兼出版人 大倉孫兵衛

左側:上(3点)の絵は16〜17才女子向きイギリス結び。下(2点)は中高年向き束髪

中:束髪を結っているところ
右側:上(3点)は中高年向き束髪、下(2点)は若い女性向きマーガレット

べっ甲商、小間物商に打撃を与えた「大日本婦人束髪図解」

時代  
寸法  
備考 『日本の宝飾文化史』P109
分類項目  


江戸時代から結われてきた日本髪に大変革が起きたのは明治18年(1885)7月に「婦人束髪会」が結成されたときからである。

同会はさっそく「大日本束髪図解」という三枚続きの束髪解説用の錦絵を刊行した。この錦絵には上部に束髪会の設立趣旨と束髪の結い方が書いてあり、その他には画面にいっぱいに基本的な束髪の図が描いてある。中心に束髪を結っている人物を据え、両脇に結ったところをブロマイド風に散らした構図はなかなか大胆で目を引く。

文は「そもそもこの会を設立(もうけ)たるはわが日本(ひのもと)の婦人をして衛生と経済と便益との三つを以って起こせしもの」と始まり、これまでの島田髷(しまだまげ)や丸髷(まるまげ)は様々な「雑品(ぞうもつ)」を毛に中に挿し入れるため衛生上も良くないと訴えている。雑品とは日本髪に必須の櫛、笄(こうがい)などの髪飾りのことである。伝統的髪飾りに代わって束髪会が勧めたのは毛先を根本へ押さえるための「ヘイアピン」(ヘアーピン)、編んだ髪を結ぶ「リボン」、そして「生花」や安価な「花かんざし」であった。

束髪会の提唱した上げ巻、下げ巻、英吉利結び(イギリス結び)、まがれいと(マーガレット)の4種の束髪はたちまち東京を中心に広まり特に鹿鳴館に出入りする婦人や女学生など若い女性の間で流行した。この流行で打撃を受けたのが、櫛や笄など伝統的な髪飾りで生計を立てていたべっ甲商や小間物商である。当時の新聞記録によると「鼈甲の櫛笄などは従来の半価にも及ばざるほどに下落した」(『朝日新聞』明治18年9月17日)というから、そのショックは相当のものだったろう。

当初は束髪用の髪飾りは一部を除いて不要視されていたが、日露戦争後になると、束髪にも華やかな束髪用の櫛、簪がさされるようになった。本格的に用いられるようになるのは明治40年代からで、この頃になるとべっ甲商や小間物商の多くは従来のように日本髪用の髪飾りの他、束髪用の髪飾りを取り扱うようになっていく。

 



 
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